ストックホルムでの10ヶ月

口腔外科学第一講座濱本宜興

本文を書いている現在(1998年1月)、私は文部省在外研究員としてSweden,Karolinska Institute, Center for Oral Biologyに留学中です。わずか10ヶ月の留学生活ですが、貴重な体験をさせていただいておりますので、ご紹介させていただきます。

ストックホルムでは5月から春が始まります。6月になると夏至祭が各地で行われ、人々は心の底から太陽の恩恵を祝います。7月8月は気温が20度くらいで湿度が低く快適です。公園に行くとスウエーデン人はのんびり日光浴しています。この国では虫をあまり見かけません。セミもコウロギもバッタもいません。薮蚊がいないので公園で昼寝ができます。湖には白鳥や鴨が雛を育てています。冬になると周期的にー5℃くらいになり、湖は凍結し歩いて渡れるようになります。しかしすぐにイギリスからの暖かい風で3℃くらいになります。風と雪がほとんどないので外出は苦になりません。冬至の頃は日の出は9時頃、日の入りは
3時前で、夕焼けよりも朝焼けを良く見かけるようになります。

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街ではイヌを連れた人を良く見かけます。イヌは特別に規制されていない限り、電車、バス、デパートの中など、どこにでも連れて入れます。当然良くしつけられており、黙ってじっと座っています。しかし街の歩道には良く糞が落ちています。飼い主のマナーにはうるさいが犬のしつけはダメな日本とは反対ということになります。街は比較的安全のようです。たまに見かけるモンゴル系の住民のほとんどは中国人で、世界人口の4分の1を占めるだけのことはあります。街の中心部は家賃が非常に高く、外国人は少なくスラムもありません。中心部の建物は町並み保存のため6階建て程度に統一されています。この国は中立国であり、かつてナチスドイツが最も優秀な民族と考えたゲルマン民族の発祥地でもありますので、戦災を受けませんでした。そのため古い建物が良く保存されています。私のアパートは築100年です。

酒に関しては日本とかなり事情が異なります。3.5%以上の酒は国営酒店でのみ販売され、限られた時間内でしか買えません。値段もアルコール度数に従って高くなり割高です。この国は高福祉で有名ですが、かつては働かなくても生活ができたので、大量のアルコール中毒患者を作ってしまった経験を持っています。そのため現在はアルコールに対する制限が厳しいです。タバコも日本の3倍の値段で、自動販売機はありません。当然未成年者には購入不可能です。これに比べると日本はあまりにもルーズです。食事に関しては、刺身にできる新鮮な魚貝類が手に入ります。醤油や味噌なども街角のスーパーで売っています。米はカルフォルニア米が手に入ります。ここでは寿司などの日本食が人気がありますが、これらは日本から直接紹介されたものではなく、アメリカ経由で入ってきたものらしいです。スウエーデンはアメリカの影響を非常に強く受けている様です。

この国は日本とは少し異なる公共意識があるようです。道路ではベビーカーを押して歩いていると車は必ず停車します。街のあらゆる所に、ベビーカーや車椅子用のエレベーターやスロープが設置されています。ベビーカーを持っている人はバスが無料です。私たち家族が外出する時はいつもバスを利用しました。バスはベビーカーが入れやすいように大きなドアと階段がない低い床を備えており、停車時には車高も低くなります。その一方で、地下鉄や壁は落書きだらけですし、道路にも犬の糞があちこちに落ちています。リサイクルも盛んです。特にアルミ缶とペットボトルは専用返却器がどこのスーパーにもあって、返却量に従って料金の一部が返ってきます。日本の様に住民の善意に甘えたやり方よりも良いのではないかと思いました。

スウエーデン人は歩くのが速く、私のようにのんびり歩いているとどんどん追い越されます。といって急いで職場について、まずすることはコーヒーを飲むことです。基本的にスウエーデン人は英会話ができ、私の下手な英語も通じます。彼らは日常会話はスウエーデン語で行いますが、医局の研究発表や抄読会などは英語で行います。その一方で文字情報となると案内、標識、広告、商品表示は全てスウエーデン語のみで何が書いているのかさっぱりわかりません。これには困りました。ストックホルムでの留学生活の初日にアーランダ空港に到着しましたが、Hammarstrom教授が空港まで車で出迎えに来られました。さらに自宅からシーツやタオル、マットレスをお持ちになり、おかしくださいました。非常に親切で正直びっくりしました。アパートもHammarstrom教授が見つけてくれたところで快適でした。アパートは生活の満足度に大きな影響を持つ重要項目なのですが、スウエーデンでは文字が読めませんので自分で見つけるのは困難です。困ったら助け合いと言うことで、こちらには日本語で書かれたスウエーデン生活マニュアルがあり大変参考になりました。このマニュアルは何年にもわたって蓄積された生活のコツが記録されており、先人の苦労がしのばれます。また、私は到着後約2日間にわたり、信州大学口腔外科の栗田浩先生(本学17期生)の密着生活指導を受けました。これが大変参考になりました。ここでは自分で文字情報を得る事ができませんので、この様な指導を受けることが必須と考えられます。アメリカならもう少し楽にちがいない、といつも思いました。

私くらいの年齢では、スウエーデンといえばボルグとアバです。ボルグは現在実業家としてボルグブランドの商品を販売しています。昨年はマッケンローとのテニスの試合がありました。また雑誌には彼のマンションの記事が載っていました。水辺の景観が美しい一等地の280平米のマンションで、1億6千万円でした。彼はいまでも立派な有名人です。一方のアバは、1980年頃に解散して、女性の一人はどこかの国の王様と結婚したそうですが、もう一人の金髪の方はどうなったのか分からないそうです。男性の方は現在もときどき BBとしてコンサートとしています。その一人の自宅はHammarstrom教授宅の近くにあり、湖に浮かぶ島に建っていました。教授宅に遊びに行ったときに案内してもらいました。その向かいは広大な日本大公邸でした。

スウエーデンも歯科医師過剰でスウエーデン人には歯学部はあまり人気がないようです。しかしスウエーデンは人口わずか800万人にも関わらず、歯科先進国としての評価を受けてます。なぜでしょうか。私はスウエーデンの歯学部がどのようにして維持されているのかを考えてみました。ちなみにカロリンスカの歯学部は今年設立100周年を迎え、スウエーデン人が誇りとするノーベル賞晩餐会と同じ場所(Stadhuset)、同じ形式で祝賀会がおこなわれました。

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まず私が研究を行っている研究室についてご紹介させていただきます。私が働いているのはKIの下部組織にあたるCenter for Oral Biology(COB)というところです。KIは医学部と歯学部からなる国立大学です。 KIと民間企業などが共同出資して設立したNovum研究所は医療関係の研究と製品の開発を目的としています。つまり研究と金儲けの両立を目指しています。COBはそのなかで歯科関係の研究を行っています。従ってCOBは歯学部とは別の組織で学部学生の教育は行いません。COBはスポンサーの利益になる研究を行わなくてはなりません。現在COBではPhDの取得を目指して数人の大学院生が研究方法を学んでいます。ちなみにPhDを取得するには自分の研究テーマに関する論文を数編以上国際誌に出し、最後にそれらをまとめたthesisを書く必要があります。

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スウエーデンは歯科先進国としての評価を受けていますが、この評価は数多くの基礎的、臨床的論文や歯科関係製品の開発から得ている評価です。この評価を元に歯学部は世界中から大学院生や研究者を集めています。彼らはここで研究し論文を書いて行きますが、それがまたスウエーデンの評価を高め、また新たな留学生を呼びます。スウエーデン人は外国人戦力を上手に使い、独創的な歯科製品を開発し、それを世界に売り、職場を維持しています。一方、歯学部には中東や東欧から来た学生が多く学んでいます。彼らは納税以上に経費を使うと考えられており、歯学部の縮小はやむ得ないと考えている人もいました。附属病院の方も、患者が溢れているわけではありません。しかし病院は収益をあげる事が目的ではなく、研究のための附属施設として維持されているようです。

最後に私が行っている研究について簡単にご紹介させていただきます。私はセメント質の発生および再生に対するエナメル基質蛋白質の作用についての研究を行っています。私が指導を受けているLars Hammarstrom教授はEMDOGAINという歯周手術後の歯根膜再生誘導物質の開発者です。Hammarstrom教授は元は口腔病理学の教授で80年代は移植歯や再植歯の癒着や歯根吸収の研究をしていました。日本で有名なDr.J.O.Andreasenとも友人です。彼のEMDOGAINに関する発想も移植再植歯の歯根膜再生から出たものですが、商品としての市場性を考えて歯周手術後の適応をまず考えたようです。EMDOGAINの作用に関しては不明な点が多くあります。私も具体的な作用機序についてHammarstrom教授に質問したことがあるのですが、「分からない。それを解明するのは君たち次世代の研究者の役目だ。」と言われてしまいました。そこで現在研究している訳です。EMDOGAINの作用を考えるときに忘れてはならないことは、EMDOGAINとはamelogeninという基質蛋白質、即ち空間を埋める物質がその主体であるという点です。つまりEMDOGAINはスペーサーとしての役割を果たしている可能性がまず考えられます。EMDOGAINが直接細胞に対して作用するかどうかはまだ不明です。

EMDOGAINやセメント質発生に関する研究のほとんどが形態学的研究です。正常セメント質は分析が難しいので生化学分野での報告はほとんどありません。セメント質腫瘍を用いた報告が数編あるだけです。このことがセメント質に関する研究を遅らせている原因であることは間違いありません。今後、生化学分野からの研究が進む事を期待しております。

今回の私の在外研究においては、まずモルモット(guinea pig)臼歯におけるエナメル基質蛋白質と無細胞性セメント質の発生の関係を観察しました。形態学的所見はあくまでも状況証拠のひとつであり、それだけでは完全な証明にはならないのですが、正常状態においてエナメル基質蛋白質が無細胞性セメント質の発生に関与することを示唆する所見は得られました。トロント大学のTen Cate教授が昨年10月にKarolinska Institute歯学部で講演を行いましたが、彼もエナメル基質蛋白質が無細胞性セメント質の発生に関与している可能性は認めておりました。

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歯周手術後と同様に、凍結保存や乾燥などが原因で歯根膜に何らかの障害を受けた移植歯も、移植後の歯根膜再生が不良になります。この様な移植歯や再植歯の歯根膜再生に対しても、エナメル基質由来物質が何らかの役割を果たす可能性は十分考えられますが、それを具体的に証明した報告はありません。そこで現在、歯根膜に障害を受けた移植歯の歯根膜再生とEMDOGAINに関する実験を行っていますが、まだ現時点では結果をご報告することができません。今後機会があればご紹介させていただきたいと存じます。

最後に今回の留学に際しては第一口腔外科の皆様を初めとする多くの方々の多大なるご援助を賜りましたことに、心よりお礼申しあげます。


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