素顔拝見

予防歯科学講座 安藤雄一 

1958年 新潟県新井市に生まれる
1977年 新井市立新井小学校・新井中学校、新潟県立高田高校を経て新潟大学歯学部入学
1983年 新潟大学歯学部卒業
      同年より新潟大学歯学部予防歯科学講座入局
        現在に至る(現職は附属病院講師)

家族  私も含めて4人(妻、長男、長女)
趣味  スキー、読書、映画
付記  学生時代にはサッカー部に在籍

以上が私の履歴とプロフィールです。
予防歯科学教室に入局してから、17年も経ってしまいました。そういえば、上越新幹線が開業したのが、ちょうど卒業前の頃で、一診(昔の学生診療室は今の「総診」ではなく、何故か「一診」と呼ばれていました。ちなみに「二診」というものはありませんでした)のライター(これもいつの間にか「インストラクター」に変わりましたが)から、「君ら学生が根治していると、患者さんが口を開けている間に新幹線は新潟から東京まで行ってしまう。もっと早くやれ」などと檄を飛ばされたのが、妙に懐かしく思えます。今とは違い、学生の誰もが臨床実習のノルマ消化に血道を上げ、廊下を走り回っていた時代の話です。

 それから17年、世の中は大きく変わりましたし、歯科の世界も変わってきました。予防歯科に入局した頃、漠然と「こんな風になれば…」と考えていた、口腔と全身との関わりや保険と予防の問題などが、現在では個人的にも直面する課題となってきたような感じがします。また、17年前は、全く人ごとであった「需給問題」は、いまや本学歯学部の根幹を揺るがす問題となっています。

 さて、入局後の17年間で、私がしてきたことの中で、多少人と違ったことといえば「子供の歯を守る会」(御存じの方も多いかと思いますが、要はフッ化物による公衆衛生的なう蝕予防法の普及を目的とした組織です)の活動に没頭していたことでしょう。初めの頃は、もっぱら地域回り担当で、年間40回以上もフッ化物洗口の講演会を行ったこともありました。講演会を3時間のうちに別の場所で3回行ったこともあり、移動の車中では選挙運動のような気分も味わったこともあります。その後、1987年から、副実行委員長を11年間勤めさせていただきました(なお、現在では当教室の葭原先生に引き継いでいただいております)。おかげ様で、「フッ素」という1つの「窓」を通じ、いろいろなことを経験し、学ばせてもらいました。仕事柄、大学以外の方々と接触する機会が多いのですが、歯科における予防面での「ニーズ」を知る意味では、貴重な経験であったように思えます。また、ひとつのことが成立に至るまでのプロセスを学ぶという点で、度重なる実践活動は、非常に貴重な勉強の場であったような気がします。

 このほかやってきたことといえば、う蝕予防を中心とする歯科の疫学データの分析でしょうか。今までは、疫学・基礎・臨床の三者がきれいに分断されていて、個人的にはそれぞれが勝手なことを言い放っていた(というと言い過ぎかもしれませんが…)ように感じています。つまり、お互いの間を交通する共通言語のようなものが存在していなかったように思えます。その意味で、これからは臨床実感というものをデータにより数値化するという作業が不可欠かと思われますので、得意分野(といっても馬鹿の一つ覚えのようなものですが…)を活かす意味でも、今後はこの辺りも1つの課題として取り組んでみたいと考えております。できれば、「歯の一生」というものを、系統的なデータの積み重ねで明らかにし、歯科医療保健がもつ効用について経済面も含めて明らかにできればと考えております。

 近年、“Evidence-based Medisine”というものが台頭し、医学の大きな流れになっていくように思えます。みなさんお馴染みの「8020」もその洗礼を受けようとしております。8020運動の中でとくに強調されてきた「口腔と全身の関わり」というテーマは、どちらかというと、歯科関係者があまり手をつけようとしなかった分野のように思えるのですが、「8020」があまりにも周知しすぎてしまったがために、ついに「開かずの扉」に手をつけざるを得なくなってきたようにも思えます。換言すれば、Evidenceの提示を社会から迫られたと言っていいでしょう。幸か不幸か、私自身も関わりを持つようになり、現在、膨大なデータの塊を前に、悪戦苦闘中の毎日です。その一方で、たまには、漠然と将来の歯科のあり方なども見つめてみたいと感じている今日この頃です。


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