「フィンランドでの在外研究を終えて」

口腔解剖学第二講座 大島勇人

 


 平成9年3月2日から1227日の10ヶ月間、文部省在外研究員としてフィンランド・ヘルシンキ大学で在外研究する機会に恵まれ、初めての異国での日常生活、研究生活を経験しました。私共には、この年に小学校に上がる6歳の息子と1歳の娘がいましたので、最初の5ヶ月は久しぶりの独身生活を満喫し、その後4ヶ月は家族サービスをかねたヨーロッパ式生活、そして最後の1ヶ月を再び単身で過ごしました。

 新潟駅を派手な声援を受け出発し、成田からの10時間のフライトの後、3月2日夕方、薄暗いヘルシンキ・バンター空港に到着しフィンランドの地を踏み、期待と不安の中、海外生活をスタートさせました。氷点下の寒さを覚悟し、数々の防寒具を用意し渡航したのですが、気温は4℃と予想外に暖かいのにホッとしました。空港には私と同じラボですでに在外研究を始めていた大阪大学歯学部解剖の田畑純先生と私の研究のパートナーとなるThomas Åbergが迎えに来てくれていました。

 私がフィンランドでの生活を始めたアパートはSörnäinenというヘルシンキの中心地にあり、郊外Viikkiに立地するヘルシンキ大学バイオテクノロジー学部(写真)へはバスで20分程の所でした。田畑先生がすべてアレンジしてくれたので、到着した日から直ぐにアパートでの生活を開始することが出来ました。アパートは市街地であるにもかかわらず、夜には人通りがほとんどありませんでした。しかし、これは冬場だけの事で、暖かくなると何処からともなく酔っぱらいが現れ、徘徊する所であることが後で分かりました。ただし、フィンランドは日本と同じように治安が良いので、日常生活に不安はありませんでした。アパートは古く、部屋は狭く照明も暗く、夜は静か過ぎる程の所で、新潟のネオン街に親しんだ私にはちょっと不満は残ったのですが、一人暮らしには何かと便利でした。家族が来た7月からはラボ近くの502以上の広さの新しく快適な外国人研究者用アパートへ移りました。

 ボスであるIrma Thesleff教授(写真)は「歯の発生学」の分野では世界の第一人者であり、バイオテクノロジー学部の中でも最も活発に研究している発生生物学部門を統括しています。Thesleff教授は以前ヘルシンキ大学歯学部小児・矯正歯科学講座の主任教授でしたが、2年前に今のラボに移ってきました。今から3年前に新潟大学歯学部を訪れたので、彼女の事をご存じの方も多いと思います。また、ラボは研究者・技官で30名以上いる大所帯で、ToothKidneyDrosophilaの3つのグループに分かれ、Thesleff教授はToothグループのリーダーでもありました。ラボでは、器官培養、In situ hybridization、遺伝子のクローニング、抗体の作製などMolecular Biologyが主体なので、電子顕微鏡などの形態学的手法の仕事は1階上の電子顕微鏡のラボで行う事になりました。

 海外生活のみならず研究においても一番問題になるのは言葉の問題です。フィンランドの公用語はフィンランド語とスウェーデン語ですが、大学は勿論のこと、スーパーマーケット、デパート、銀行、郵便局、レストランと何処でも英語が通じます。私は英語の論文を読み、英語で論文を書くという事には慣れていたのですが、英会話になると話が全然違いました。フィンランドに行った当初は、ヒアリングに全然ついていけず、なかなか意志の疎通が図れなくて苦労しました。これは研究面でも消極的にならざるを得ない結果になってしまい、改めて語学力の重要性を痛感しました。

 ラボのセミナーでは3回所見発表をすることが出来ました。最初の発表は原稿を作り、それを読むことに終始していましたが、後の2回は原稿なしで発表することが何とか出来るようになり、自分の所見に関するdiscussionには四苦八苦しながらも対応することが出来るようになりました。しかし、自分の研究以外の事や一般会話では、単語力、話題などの問題があり、英語ではなかなか会話が長続きしません。「日本語ならもっと話せるのに」と何度となくもどかしい気持ちを味わいました。しかし、ラボには田畑先生の他にも、6月からは日本に9年間住み、ロンドンでPh. Dを取得したHan-Sung Jung(鄭翰聖)がポスドクとして、バイオサイエンス講座には滋賀医科大学から留学中の今井晋二先生もいて、ラボでは毎日日本語を話す事が出来、言葉の面での欲求不満の解消が出来たのは幸運でした。

 フィンランド語は10ヶ月間勉強をしましたが、全くと言っていいほど身に付きませんでした。フィンランドの保育園に通っていた2歳になった娘が話す言葉がフィンランド語とは理解できなくて、後でフィンランド語だと気付いたときは愕然としました。フィンランドでは、フィンランド語が話せなくても英語で事足りるので、「必要性がなければ、語学は身に付かない」事を実感しました。いずれにしろ、語学力の向上が今後の大きな課題であることは間違いのないことのようです。

 

 研究面では、海外渡航を経験し、グローバルな視野で自分の研究を見ることが出来るようになったと思います。ラボでは、形態学、生化学、分子生物学、細胞生物学というジャンルを越え、学際的に同じプロジェクトの下で研究していましたが、歯の発生学の分野も含めて最近の研究の主体が分子生物学、細胞生物学になり、生物科学の基本である形態学の占める割合が低下してきたかの印象を受けます。いずれにしろ、これからの研究は1つの専門知識では通用しなくなっているのは事実で、広範な基礎医学の知識の習得は研究の遂行に重要な意味を持ってきます。

 実際の研究生活はというと、研究システムが日本とは全く違うこともあり、大変苦労しました。まず、テクニシャンの数が多く、また日本では考えられない位、大きなウェートを占めていました。研究者を手助けするというよりも、研究の大部分をシェアーしているという印象を受けました。特に私の専門である電顕の分野でも、最後の電顕観察以外の仕事、つまり試料作製はすべてテクニシャンの仕事でした。バイオテクノロジー学部を含めViikkiのバイオセンターという研究施設で、自ら超薄切片を作製している研究者は私たった一人で、さしずめ私はテクニシャンとリサーチャーの両刀使いといったところでしょうか? 4台あるウルトラ・ミクロトームは朝から夕方4時までテクニシャンが占有し、私が使う事が出来るのは夕方4時過ぎでした。しかし4時過ぎには電顕部門の実験室には誰一人いなくなり、電顕部門のJorma Wartiovaara教授のご配慮もあり、勝手気ままに実験室を使うことが出来ました。

 今回の海外渡航を期に、これまでの研究とは異なる「歯の初期発生」という新しいジャンルに挑戦しました。しかし、歯胚の固定には苦労させられ、電顕レベルでの満足いく固定の試料がなかなか得られませんでした。また、ボスから抗体を渡されたのですが、なかなか免疫組織化学がworkしませんでした。日本のラボではわけもなく出来たことが、留学先ではなかなかうまくいきませんでした。

 突破口が見いだせないまま夏を迎え、家族がフィンランドにやって来ました(写真)。その頃同僚のHan-Sungも実験を始め、1ヶ月程で結果を出し、セミナーで発表しました。彼の研究に対する積極的な態度は、私にとっても参考になるところが多く、「研究は攻めなければならない」と実感しました。その後、私も自分で器官培養実験を開始し、Thomasとの共同実験、歯胚の電顕観察などをもう一度気を引き締め、大学院入学当時に戻った気概で取りかかり、残り4ヶ月でやっと結果らしきものが出てきました。そして最後の方には、自信をもっている電顕の技術で、形態学の重要性を十分アピール出来たと自負しております。「真の研究実力が問われるのが在外研究」という気持ちを持ちましたが、自分の在籍していた日本のラボの素晴らしさを再認識する結果にもなりました。

 初めての海外生活はまた、家族と共に過ごす時間も多く取れ、フィンランドの夏を満喫すると共に冬の休暇時には北極圏への旅も経験することが出来ました(写真)。しかし、息子の小学校入学が重なり、1ヶ月しか一緒に過ごす事が出来ず、息子には3ヶ月も両親不在という経験をさせてしまいました。しかし、帰国後に息子の逞しく育った姿を見て、ホッとしました。口の悪い教室員には「親はなくとも子は育つ」などと言われましたが。また、娘には異国の地で初めての保育園生活を強い、いやがる娘を毎日保育園に残し、娘に可哀想なことをしました(しかし、娘も2ヶ月目には保育園生活を楽しんでいました)。家族がフィンランドに来てから私の研究成果もあがり、改めて家族の大切さも実感すると共にフィンランドまで来てくれた家族に感謝する次第です。

 それでは、同じラボに8ヶ月一緒にいた阪大・田畑先生のホームページを紹介して校を終えます。ヘルシンキでの生活を詳細に報告していますので、私のヘルシンキでの生活が想像できると思います。

 

 最後に在外研究の機会を与えて頂き、海外渡航中には多大なご迷惑をお掛けした前田教授ならびに口腔解剖学第2講座教室員の皆様に感謝したいと思います。今後はフィンランドでの経験を生かし、自分の研究、教育に役立てていきたいと思っています。今後とも宜しくお願い致します。


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