海外レポート・・・歯科麻酔科  瀬 尾 憲 司

 平成6年4月から平成7年6月までの1年3ヵ月間、カナダのトロント大学へ留学してきました。トロントはカナダの東部で、五大湖のひとつオンタリオ湖に面し、ナイアガラ滝をはさんでニューヨーク州と隣り合わせの位置にある、首都ではありませんがカナダ最大の都市です。アメリカ大リーグの強豪ブルージェイズのホームグラウンドである屋内野球場スカイドームと世界一の高さ(500m)を誇るCNタワーが街のシンボル、ブロードウエイのミュージカルを上演する劇場が軒を連ねているなど、その文化のほとんどがアメリカ合衆国と類似している一方、世界中からの移民の集まる街として、独自の文化をも形成しているという非常に面白い大都会でもあります。トロント大学はそんなトロントのダウンタウンの真ん中に広大で非常に美しいキャンパスを構えており、カナダで最古の歴史を持つ大学として有名です。毎日のように構内には観光バスが入り、19世紀のロマネスク調の立派な建物を背景に多くの観光客が写真を撮っている姿が見られました。しかし残念なことに歯学部はそこから少し離れたビジネス街の中に位置するただのビルデイングでした。私が席をおいたのは口腔生理学教室で、ここでは慢性に電極を埋めこんだサルを使って咀嚼運動の大脳皮質でのコントロールを研究するMotor groupと、三叉神経領域の痛みの伝導路と下降性抑制系を研究するSensory groupの2つがあり、勢力的に研究を行っていました。ここでの実験はサルのような高等動物を使うこと、痛みを動物に実験的に与えるということで、毎年4月になると動物愛護団体の抗議デモを受けていました。破壊活動的な性質を帯びているため、私達スタッフは常にカードキーと暗証番号で開く厚い鉄の扉の奥で仕事をすることになり、デモの期間は身の危険を守るために学部には近づかないよう警告されたこともありました。ラボに置いてある機械は決して日本のものと比べて最新のものとはいえませんでしたが、それまでコンピュータといえばワープロとスライド作りが主な機能と信じていた私にとっては、非常に巧くコンピュータを利用して研究を行っているという印象がありました。大学院の頃にはペン書きされた大量のデータの紙を眺めて、変化のありそうなところを探し出し、そこだけを数値に変換して分析していましたが、ここでは全てのデータをコンピュータで自動的に膨大な数値の列に置き換え、後は数値と数値の比較で単純に計算を行い分析を進めていました。したがって予期せぬ所に重大な変化が潜んでいることに何度か驚かせられたものでした。私の研究は痛みの下降性抑制の誘導に関するものでした。これは簡単に言いますと、延髄より上位の中枢は痛みの発生に対して自動的にその痛みを押さえるような一種の防御機能を有しており、それがどのように誘導されるのかを生理学的、薬理学的に研究するものでしたが、実はここまでたどり着くまでには結構苦労したのです。私なりに、、、、
 大学院時代には自律神経系に関する研究を行っておりましたが行き詰まり、新しい分野を開拓しようと思っていろいろな先生に相談しておりました。ところが平成5年の春、偶然にもトロント大学の痛みで有名な教授が来日するということで思い切って会いに行ったのでした。同年7月にその教授にごタイメーンしたところ、金はやらぬが来ても良いとの、何とも複雑な気分になる返事をもらい、周囲の先生のいろいろなご意見を参考にしていくうちに、次第に気分が乗ってきて、どうしても行きたくなって、決断。とうとう平成6年4月1日家族を連れて、まるで家出のように荷物を飛行機の持ち込み、携行制限いっぱいに持って出国しました。直行便で約12時間の退屈、そして不安感でいっぱいのフライトで着いたところが、地球の裏側、最果ての地トロント。ビルは建っていても荒涼とした寒々としたところでした。一体どうなるのかという言いようもない不安は一層増すばかり。大学に行くと、直ぐにお前は何ができるのかということを聞かれ、前に送ったはずの自分の論文を改めて引き出して見せるという始末。こりゃイカンと思い、とにかく自分をアピールすることに専念するも、やはり言葉の壁は大きく、結局希望しなかったMotor groupへの編入となってしまったのでした。それから私のサーカス団の道化師のようなサルの世話、研究生活とは言い難い生活が始まったのでした。オリの前でサルに馬鹿にされ、何のために家族とここまで来たのかと思うと、結構気分は暗くなったのですが、家族と来たので家に帰ると何とか気分も解れ、我慢もできたものでした。それでも痛みの研究をしたいという願望が強く、しつこく主張していくうちに、痛みの研究のひとつを少しずつ見学させてもらうようになったのが約2ヶ月後。いろいろ積極的に動いたのが奏を効して、見学は次第に実験のお手伝いとなり、ついにはそのほとんどを任せられるようになったのが7月の終わり。トロントでは秋の初めの時期。これからは少しずつ涼しくなろうとしていく頃に、ついに独自のプロジェクトを獲得しひとりで熱くなっていたのでした。後は毎日、ラットとの格闘。仕事に満足すると外国生活も本当に楽しむ気分になれ、車や飛行機で旅行三昧。西はロッキー山脈、ビクトリアアイランドから東はケベックと東奔西走。家族付きあいできる日本人の友人もできるようになり、いっしょに旅行することもありました。ハローウインやクリスマスを楽しみ、元旦にはテレビ放映される紅白歌合戦を、初めて最後まで見て感激。さむーいスキーを楽しんでいるうちにいつのまにか帰国の時期とはなりましたが、研究の区切りを付けるために、なんとか3ヶ月間帰国の延長をお願いして満願成就。何とかデータの数だけをそろえ、多数のフロッピーデイスクをもって、6月末に蒸し暑い、オームで揺れ動く危ない国に無事帰国となったのです。 帰国直前のトロント大学での送別会では、ここに初めて来た頃とははるかに違う教室の先生方の私を見るまなざしの違いに驚いて、結果的にはなんとなく良い留学であったと思いました。そしてトロント空港を離陸する時に見た家族の涙を見て、来てよかったと安心したものでした。しかし、本当に日本を思い切って飛び出て成功であったと言えたのは、帰国後の11月、アメリカ合衆国での学会で、無事自分のそこでの仕事を発表できたときであったような気がします。
写真説明:
トロント大学のシンボル的な建物である講堂
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